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あおべかものがたり
青べか物語
山本 周五郎
「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页
――店は電燈を一つ残して、あとは消してあったから、広い鉤なりの土間は、月光の遍満している戸外の明るさで、実際よりもうす暗くみえた。――おすみは酒の壜と、蓋物を持って土間の奥から出て来た。草履をつっかけているので、足音は聞えなかった。彼女は手招きをし、少年が近よってゆくと、持っている酒の壜と蓋物を脇へ置き、すばやく少年を抱いて接吻をした。少年はじっとしていた。躯も頭もまっすぐにしたままで、両手は躯に添って垂れていた。おすみはものたりなげに、けれどもすぐに少年からはなれた。
「はいお酒」とおすみは云った、「この中にすずめ焼としぐれ煮がはいってるよ」
少年はその二つを受取って店を出た。
「よういろ男」と初めに呼びかけた男が云った、「今夜は三十二号で逢曳きか」
だが少年は黙って道を横切ってゆき、草履をぬいで小腋にはさみ、渡り板を渡って三十二号船の中へ姿を消した。
彼は三十二号船の見習い水夫であった。年は十七歳、みんなは彼を「銀公」と呼んでいる。銀次というのか銀太というのか、あるいは銀造とでもいうのか、苗字も正しい名もわからない。この土地では一般にそういうことに興味をもつ者はいないようだ。