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あおべかものがたり
青べか物語
山本 周五郎
「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页
これまで一度も感じたことのない、ぞっと総毛立つような、快楽の戦慄が突きぬけるように思った。
「あたしあんたが好きよ」とお兼は彼の耳に囁いた、「あんた、芳野の海苔漉き小屋、知ってるでしょ、知ってるわね」
助なあこは黙って頷いた。
「あたしあんたに話したいことがあるの」とお兼は続けた、「今夜ね、七時ごろあそこへ来てちょうだい、来てくれる、ねえ」
お兼はそっと助なあこの手に触れた。彼はぴくっとなり、躯をいっそう固くし、そしてお兼の手に伝わるほど激しくふるえた。お兼はまた、あのふしぎなよろこびの感覚におそわれ、助なあこの手首をぎゅっと握ってから、それを放した。
「もうみんなが沖から帰ってくるじぶんだわ」とお兼は云って溜息をついた、「みつかると口がうるさいからあたし帰るわ、世の中ってままならないもんね」
お兼はもういちど夜の約束をし、鼻唄をうたいながら去っていった。
助なあこは時間を計っていて、やがてそっと振り向いてみた。あまり長いこと同じ姿勢でいたため、首の骨がきくんと鳴り、頸の筋がつった。お兼はもうずっと遠く、白い煙に包まれている石灰工場の近くまでいっていた。