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あおべかものがたり

青べか物語

山本 周五郎

「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页

青空文庫

「あんたが好きよ」助なあこは頸の筋を揉みながら、お兼の云った言葉をまねてみた、「あたしあんたが好きよ」

彼の顔が歪み、眼から涙がこぼれ落ちた。

もう春も終りだ、世の中はままならない、あたしあんたが好きよ、水の流れと人の身は、はかないもんね。それらの言葉が彼の頭の中で、一つ一つはっきりと、この世のものとは思えないほど美しく聞えた。それは殆んど純金の価値を持ち、純金の光を放つように思えた。

「おら一生、忘れねえ」助なあこはそっと呟いた、「どんなに年をとっても、死ぬまでも、きっと忘れねえ、きっとだ」

美しいものは毀れやすい、毀れやすいからこそ美しい、などと云うつもりはない。ここには美しいものはないのだ、逆に、美しい感情がもてあそばれ、汚されるのであるが、助なあこの受けた感動だけは美しく、清らかに純粋であった。

彼はその夜、約束の時間に約束の場所へいった。芳野は堀南の釣舟屋であるが、季節には海苔もやるので、弁天社のうしろに漉き小屋と干し場を持っていた。そこは沖の百万坪のとば口にあり、畑と荒地に囲まれ、隣りの漉き小屋とは二百メートルもはなれていた。――日の永くなる季節ではあったが、もうすっかり昏れてしまい、あたたかい宵闇のどこかから、みみずの鳴く声が聞えて来た。