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あおべかものがたり
青べか物語
山本 周五郎
「文藝春秋」1960(昭和35)年1月号~1961(昭和36)年1月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 160,888 字 · 317 页
或るとき私は写生帳を持って、町の中央部にある、中堀橋を渡っていた。すると、向うからその男が来るのを認めた。彼はやはり袖なしの半纏をひっかけ、雪駄ばきで、口に飴を咥え、飴に付いている杉箸のような物を、両手で挟んでくるくる廻しながら、いかにも暢気そうな、この世に心配なことはなにもない、と云いたげな顔つきで、ふらふらと歩いて来た。そうして、私が片方へよけている狭い橋の上を通りすぎるとき、彼はなにかのオペラの中のアリアを、鼻で、かなり正確にうなっていた。
私の問いに対して、「千本」の長は軽蔑したように、鼻柱へ皺をよらせた。
「うちは堀で魚屋をやってるだ」と長が説明した、「水汲みばかっていうだよ」
私はまた訊いた。
「そうじゃねえ、ずっとあとだ」とこの小学三年生は云った、「蓄音器のよ、レコードを買い始めたべえ、いくらでも買うだ、二階がみしみしいうほど買って買ってよ、朝っから晩までそれを聞いてるだよ、そのうちにな、レコードの数が殖えるのといっしょに、だんだん頭がおかしくなってきたんべえ、それでよ、嫁を貰ったら治るべえかって、葛飾のほうから嫁を貰ったっけだ、そしたら頭あちっとも治らねえで、水汲みい始めただ」