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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

二

「えっ、名は」

「土肥八十三郎」

無造作に、お菊ちゃんは告げた。

二

「ほんとか! おいっ!」

懐中で握り合っていた手と手を、抛り出すように放して、露八が云った。

その血相に、お菊ちゃんは初めて、彼の顔がいッぱいに真人間の良心と感情を激動させているのを知って、

「おや、どうなすって」

「土肥八十三郎と云ったな」

「ええ」

「間違いないか」

「ありません」

「わ……」

と、泣きたそうに、露八は両手で顔を蔽って、

「面目ない、面目ない」

「どうしたんです」

「弟だ。八十三郎は俺の弟だ」

「ほんとですか」

今度は、お菊ちゃんが、吃驚して訊いた。

「誰が、こんな嘘を云う。……ああ知らなかった」

「私も知らなかった」

「弟は、国事のために、牢にも入り、板子の下にまでかくれていた。……兄は、この兄貴は……。酒を飲んでいた」

「…………」

「酒に飲らい酔って、弟の頭の上で、歌をうたった。踊りを踊っていたじゃないかっ。……馬鹿っ、この馬鹿」

自分の頭をぽかぽかと拳骨で撲って、うろうろと、いまにも泣き出しそうな顔を、朝靄の彼方へ上げた。

「そうだ。――もう会えないかも知れない。追いかけて行って、一言、謝ろう!」