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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

三

「ふしぎだ。……いくら相手が、榊原でも」

彼は、不合理と取っ組んで、じっと、半日坐りこんでいた。すると、

「兄上、どうなさいました」

弟の八十三郎が、起きだして来て、彼の蚊帳坐禅をのぞきこんだ。

三

「どうもせぬ」

「お暑いでしょう、蚊帳を吊ったまま――」

「やぶ蚊めが、うるさいのだ」

「昨日は、風邪で、道場へ参れず、残念でした。しかし、おめでとう存じます。先刻、叔父御の声を洩れ聞きますと、明晩は、ご披露のお祝いとやら、拙者も、病床を上げてしまいました」

すべてが、庄次郎には、皮肉に聞こえた。

「おい、弟。――おまえの部屋に、新刷の武鑑があるか」

「誰方を、お調べなさるので」

「榊原」

「榊原家は、何軒もございますが」

「健吉と云った。榊原健吉、御家人か、藩士か、何役だ」

「あの人なら、武鑑を見るまでもございませぬ。人斬り健吉で通るくらい」

「そんな有名な奴か」

「念のため、見ましょうか」

部屋から持って来た大成武鑑の三の部をひらいて、八十三郎は、読むように聞かせた。

「榊原健吉、講武所教授方出役、百俵十人扶持、下谷三枚橋常楽院裏――と。かようです」

「ふウむ……」

不合理の我が、ぽきと、首を折られた。