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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

にが虫

一

「おい、お客」

露八は、障子をあけて、そこから首を出して呼んだ。

「支度ができたからおいで――」

にが虫

一

「あら……おまえは?」

清麗な老嬢は、その時、石をぶつけられた藪鶯のように吃驚した声をして、幇間の桜川を措いて灸点師の前へ走っていた。

「露八さんじゃないか?」

「あっ……お菊ちゃん」

「まあ……あきれた……」

浜中屋の娘の、笛のお菊ちゃんであった。

変わったお互いの姿を語りあうよりも先に、お菊ちゃんは怨をふくんだ眼で、

「おまえは、ほんとにひどい人ですね。穴守の茶屋へ私を待ち呆けさせたまま、聞けばあの時あの脚で、上方へのぼってしまったのだということじゃありませんか」

「そうそう、そんなことがあったなあ」

「あったなアもないもんです。……だけど、いつから静岡へ来ていたの」

「もう、四、五年」

「あら、私も四、五年になるんだけれど、どうして今日まで会わなかったんでしょう」

「お菊ちゃんも、いい奥様ぶりになったな。江戸の美い女が、みんな、薩摩ッぽや、長州弁の官員様の女房に取られちまうのを見ているのはさびしい。勝てば官軍か」

「よしてください。私は相かわらず病身だから、今でもきれいに独り身なんだよ。