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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

神奈川追分

一

そのときも、振り顧っていた。そして思わず、あっ……と佇立んでしまった。

神奈川追分

一

白みかけた水明りに、先刻の船はおぼろに見える。桂はまだ其船にいて、船頭とともに、船底の板子を上げていた。

(何をしているのか?)

と思うまに、板子の下から、一人の武士が背を伸ばした。そして、船頭の手から二つの笠を受け取ると、身迅く、ぱっと岸へ跳び上がって、露八の歩いて来た道とは反対な方角へ、走り去ってしまった。

呆っ気にとられたような顔して、露八は、歩くことも、お菊ちゃんに答えることも、忘れているのだった。

「誰だ? ……。今、船底から出て行った侍は」

「そんなこと、いいじゃありませんか」

「隠すのか」

「気を悪くしたの。……じゃあ、もう話してしまう」

男の肌の中で、お菊ちゃんは、男の手をじっと握ったまま、

「ほんとのことを云うと、ゆうべは、斧四郎旦那とお喜代さんをだしに使ったわけ。……だけど、貴方はべつですよ。貴方には、私がほかに用事があるから誘ったんです……。だから、怒らないで下さいね」

「そんなことはいいが、俺には、お菊ちゃんのしていることが、どうも腑に落ちない。俺には仔細を云えないのか」