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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
人斬り健吉
一
大男の庄次郎が、水引がけの竹刀をかついで、泣きたそうに、腰を押されて行く態は、奇観だった。
すると、
「もし、土肥さん」
長屋門の窓から、渋沢栄一が、顔を見せて呼びとめた。
「あ、渋沢氏」
「だいぶ、お困りらしいの」
「弱った。とめてくれ」
「とまるものですか、酒飲みが、飲もうと思い立った時は、剣法の打ちこみと、同じですよ。それに、古参の方が多勢では――」
「父がやかまし屋で」
「藩邸へ、見えられたとき、私から謝ってあげます。お持ち合せがないようだが、これに少しばかりありますから、まあ、今日は、交際ってあげなさい。お父上も、同門の交際いまで、いかんとはおっしゃりますまい」
武士のもつ紙入れとはちがって、うす穢い財布だった。窓から、庄次郎の手に、ぽんと、落としてくれたのである。
人斬り健吉
一
しがらき茶屋の奥に、庄次郎を入れて七、八名が、衝立で席を割って、飲みはじめた。
汐留川が前だった。
店頭は、広土間で、旅帰りを出迎えている人々や、板新道の芸妓と、八丁堀の与力が、公然と出会いをしているのや、駕かきや、馬の尻が、中仕切の簀戸から透いてみえる。
夕方の、むし暑い風が、せまい銀座横町の馬糞いろの埃と、蠅とを、塀ごしに運んできて、そら豆の色が青いほか、ちゃぶ台の上は、白っぽくなった。