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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

かんぬき差し

一

「直心影流の達人です。けれど、そんなものをいちいち恐れていては、吾々は、何もできぬ。またこの京都にも一日だっていられはしません」

どう彼が動かそうとしてみても、弟は、顔いろすら変えるのではなかった。

かんぬき差し

一

数日の後。

河原町の薬師堂に下宿している渋沢栄一を、露八は、訪ねて行った。

「土肥君か」

あまり浮かない顔だった。

露八は、訪ねて来たことをすぐ後悔しながらも、弟のためにはと、頭を下げた。

「じつは、お頼みがあって、来たのですが」

「まあ、向うの部屋へ行こう」

話の先を折って、渋沢は立った。なるほど、その一室には、彼のほかに三人も一ツ橋家の小役人らしいのが机を並べていて、書類に埋もれながら忙しげに書き物をしているのだった。

「ここなら、暖かいし……」

と渋沢は、薬師如来の内陣が見える本堂の隅柱に倚りかかった。春さきの陽が、露八の背と渋沢の横顔へ、波紋のように明るく射した。

「その後、君は、何をやっているのかね?」

「流しをやっています」

「三味線弾き?」

「へい」

「ふふむ……。町人になりきったね」

「なりきれないんで、困っていますよ」

畳の陽だまりに、冬を生きて越した蠅が一匹、顔をこすっている。