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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
二
台所の水障子を開けて、女按摩のお吉が入ってきた。
お吉は、父親の知れない子どもを一人かかえていた。毎晩、隣家の露八の家へ子を預けて稼ぎに出るのだった。
揺り起こされて、
「お……。お吉ッつぁんか」
露八は、渇いた唇を、舐めまわした。
「もう、九刻かい」
「過ぎましたよ」
「お蔦は、どうしたか。まだ帰らない」
「また、山じゃございませんか、春帆楼や、月波楼へゆくと、芸妓衆も、おそくなりますから」
「さ、お由坊を、返すぜ。そっと、すぐ寝かしてやんな。無邪気だなあ、このごろあ、俺をほんとの父親とでも思うのか、よく眠ることさ」
「毎晩、すみませんね」
「なあに、どうせ、退屈している俺だもの、俺の方が、紛らわしてもらって、有難えくれえなもんだ。……よしかね、そうら」
抱き上げて、子供を渡してやると、露八はあわてて、
「おや、いけねえ」
と、立ち上がった。
「どうかしました」
「お尿ッこを、しちまいやがった」
「あれ、まあ、どうしましょう」
お吉が狼狽して、子供を畳へ置こうとすると、露八は、
「イイヨイイヨ」
着物の前を抓んで台所へ駈けて行った。
閉め忘れた引窓から、四角な月の光が板の間に落ちていた。