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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
「姐さん、大坂屋さんですよ」
やがて、座敷札がまわって来た。
使いに訊くと、
「奇兵隊の河合さん」
名ざしだと云う。
「ありがとよ」
心づけをやって、鏡のまえにもう一度もどる。
鬢掻の脚で、耳の裏を撫でつけながら、
(あの馬鹿亭主、いいあんばいに、出たっきり帰って来そうもない。河合さんに話したら、腹をかかえて、笑うだろう)
そんなことを、鏡の中の顔は、考えていそうにもなく、美しく考えていた。
いそいそと、褄をとって、出て行った。馬関の稲荷町には、黄昏が来て、宵が来て夜更けが来て、そして喧嘩やら、奇兵隊節やら、ジャンジャカ三味線やら、ゆうべと変わらない疲れた眠気が下り、霜が下りる。
お蔦は、酔って、
「いないから、いいじゃないの。――もう追ん出しちゃったんだから」
河合の手を組んで、左褄を、自暴にはしょって、稲荷裏の家へ、よろめいて帰って来た。
「なんたって、帰さないからいい。――さ、お入んなさいってば!」
だが、門口の格子へ手をかけた途端に、お蔦は、おやと、家の中へ、眼をみはった。
鉄瓶は、ちんと沸いて、行燈が、灯っているし、寝酒の二本も、いつものとおり、猫板に乗っているではないか。