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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
竹婦人
一
蚊帳を這いだして、
「往って来るよ」
「どこへです?」
「預け物を、取りにゆく。――もう、行きたくなくなったが、父上と叔父御には、見せねばならぬし」
陽ざかりだ。
小石川からのそのそと江戸の真ん中に出ると、もう七刻下がり。板新道の下水が、暑さに沸いていた。
「酔っぱらい奴が」
ゆうべの友達どもの悪戯が、そこへ来ると、恨めしくなった。昼間から、三味線の音がする町――白粉の女が見える狭い路地――何としても入りにくい。
「荻江節のお里という家だが……。もし藩邸の者にでも見つかると?」
何度も、路地口を、往ったり来たりしていたが、やがて思い切ったように、庄次郎の堂々と肥えた体が、きょときょと後ろを見ながら曲がって行った。
竹婦人
一
――ごしなん、荻江さと。
そこらの空気だけでも、書生侍の木綿のたもとには、白粉けが移る気がして、
「あ。ここだな」
小粋な細格子の中をのぞいたが、庄次郎は、気が怯んでしまって、少年の動悸に似たものが、顔へ、のぼってきた。
もいちど、その前で、汗を拭いていた。
稽古日とみえて、奥からは撥のたかい三味線がもれてくる。禁断の閾をまたぐような好奇心が、彼の勇気を衝いた。