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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

――吾輩が代わっているから、ちょっと、行ってくれたまえ」

稽古胴に短い袴をつけた榊原の門下の男が、櫓へ上って来て、太鼓の前に坐った。

露八は、分かりきっていることを、わざと、訊き返した。

「奥さんて、誰のことだ」

「先生の奥さんじゃないか」

「あれは、妾だ」

「何でもいいから行ってくれ」

「用があるなら、こっちへ来いと云いねえ。芸人交際いを知らねえやつだ」

「そんなこといわんで、吾輩の顔を立てて行ってくれたまえ、頼む」

むッとした顔を持って、露八は、楽屋へ廻って行った。丸太小屋ではあるが、筵の上へ、赤い蒲団だの、長火鉢だのが持ち込まれてあった。そこを帳場のようにして坐っているのは、板新道以来ずっと健吉ひとりを守り通して来ている荻江のお里であった。

「なんだい、お里さん」

二

奥さんと彼だけが楽屋中で一人云わないのであった。お里は、総見の切符殻と、帳面とを机において、算盤へ首をかしげていたが、額ごしに、露八の足を見て、

「お坐りなさいな」

「立っていたっていいだろう」

ついこう云いたくなるのであった。お里も、むっとして、

「露八さん、この間の総見札の二百枚、あれは、どうしたの」