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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
「あたしだって……」
と、指の撥だこを見せて、
「子供の時から、その父に、仕込まれては来ましたけれど、稽古所の師匠なんて、おかしくって、できやしない。性分だから、しかたがありませんよ。家元の看板を、中のお里に譲ってしまって、がらにもない、お武家様の奥様に、納まろうとしたけれど、これも駄目……。結句、今では、妹たちの厄介者になっていますが、出戻りの女って、世間は狭いし、家の中は面白くないし、ほんとに、鬱々しちまいますよ」
軒が断れると、西陽が、頭から射した。お蔦は、その西陽も感じないように、しゃべってあるいた。
京橋をこえる。
(遠いな)
庄次郎は、どこへ行くのか、想像がつかなかった。
神田の紺屋の原をぬけると、もう、陽が翳ッて、方々で、打水をするし、夕風がたつし、だいぶ楽になった。
「どこじゃ、その人の、住居というのは」
「川向うですよ」
神田川が、見えていた。
店をだし初めた古着屋が、戸板だの、吊しん棒を、黄昏の柳原土手に、並べ初めている。
それへ、もう、客がたかっていた。庄次郎は、ふと、その中の一つの顔に、
「おや、渋沢だ」
と、呟いた。
滅多に、藩邸の外へ出ない渋沢栄一が、古着屋をつかまえて、商人の着るような棒縞の単衣と、角帯とを値ぎっているのだった。