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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
心から惚れているのは、あのお喜代なのに、妻といい、情婦といい、運の悪さを、心で喞った。
「さ、歩けっ」
健吉は、ぐいぐいと拳を押す。亀の子の泳ぐように庄次郎は歩いた。
どこへ、持って行って、斬るつもりか。
橋をわたる。
築地河岸の原っぱが見える。
「駄目だ……」
彼は、観念した。首を斬られることが、さほど、悲しくなくなって、自分の姿が、笑いたくなってきた。
健吉が、自分の首すじへ、刃を当てるときには、
(お喜代さんに、よろしく伝えてくれ)
それだけは、頼んでおこう。
また、ほかの不義理はとにかく、渋沢の借金だけは、事情を話して、父から返してもらうように、これも、遺言へ加えておこう。
そんなことを考えている間に、踏んで行く草が見えだした。どこかで、汐干船の馬鹿囃子が聞こえる。春風は、景気のよい馬鹿囃子のチャンギリの音をつつんで、庄次郎の首すじを吹いた。
原の中ほどまでくると、榊原健吉は、ふいに左腰をひねって、
「それへ、直れっ」
いやというほど、庄次郎の体を、たたきつけて、振り向いた。
「お待たせしたな、約束の男、連れて参った」
べつに一名の侍が、原に待っていたのである。