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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

「立てっ」

と、促した。やっと露八は立った。

黙って榊原は先に立つ。手燭も持たず、裏梯子を降りる。架け縁を渡る。大谷石の段を三つ踏む。あつい欅戸ががらがらと開いた。

「ここなら、汚してもかまわぬ。自分で腹を切るか、斬ってやろうか」

「斬……斬って……」

ここまで歩いてくるうちに、三斗の血でもこぼして来たように、露八はげっそりしてしまった。渇いた口は、完全に、舌を縺れさせている。

病人のように、へたっと、土蔵部屋の湿っぽい畳の上に、腰をつく。

恐怖にみちた白い眼が闇にぽかっとしている。榊原は一度土蔵の外へ出て行った。雪洞を取って来たのである。

「遺言があるなら聞いてやるが……」

「あ……ありません……」

歯が鳴る、骨がガタガタ鳴る、落ち着かない眼が、この世の物の影を拾ってきょろきょろと意志なく見まわしてばかりいる。

榊原はいやな顔をした。

人斬り健吉でもこういう小胆者は斬りにくいとみえる。と云って、この容子では所詮自分で腹を切るだけの勇気はないに極まっている。いっそ助けてやろうかとも思うのであったが、

(いや、弟思いな奴だから――)

やはり目的のためにはと、眼をつぶる気になった。