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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

と、泣いた昔を思いだして、涙も出ない今の自分の変わり方を、露八は、年のせいか、時勢のせいかと疑った。

吉原の飯は、露八をして、肥えている上にぶくぶくと肥えさせて行った。それがまた、道化稼業には都合がよくて、

「仁王をよべ」

といえば、松の家へかかる。

黒助稲荷の朝湯には、きまって、露八の大声が聞こえる。夜ごとの酒の脂肪を糠袋でこすりたてた露八の顔を見ると、顔に顔が映るといって、仲之町の芸妓たちが面白がった。

女房ももち、養女も貰い、金のまわりが楽になると、露八はほとんど、家庭にはいなかった。道楽のうちでしないのは博奕だけであった。あいつの顔は顔を見ただけでもおかしい、あんな道化てばかりいる暢気者はないぞとは、客の云うことであるが、吉原の者は、台屋の横丁のぬかるみを、苦虫を噛みつぶして、黙然と腕拱みしながら、聾のように歩いている彼の姿をたびたび見かける。

三

「松の家さん、こんど銀行ってものが出来るってえじゃありませんか。銀行って、何をする商売です?」

黒助湯の番台が、東京日日新聞をひろげて、開化の智識を求めるように、露八へ訊く。

「銀行? へエ……」

裸体の露八は、新聞を置いて、背中から湯気をだしていた。