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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

露八の耳をそばだてさせた今の音は、その船に、端然と坐っている清麗な佳人の手にある横笛のすさびであった。

それが、お菊ちゃんであることは、感能でわかった。――だが、お菊ちゃんのまえにもう一人、泣いてでもいるらしい町風の嫋女がややくの字形に坐って俯向いている。露八は、眸の力のあらんかぎりで、船が、もっとも近いところを過ぎるのを待っていたが、やがて、

「あっ、お喜代だ……、お喜代だ……」

囈言のように云って、露八は身を浮かした。

お喜代っ――と声かぎり呼びたいような感情に彼は駆られた。しかし、彼女は聖僧の法典にでも聴き入るようにお菊ちゃんの笛の音に耳も心も傾けているらしかった。お菊ちゃんの身構えはまた冷々として氷柱か石のように、そして、すさぶ横笛は、平家の栄華を見、平家の末路を眼でみた、あのころの白拍子のなげきのように、恋も、巷のことも、永い人生も、すべては、繰り返し繰り返しさるる是空の色現色滅であるにすぎないと教えてでもいるかのように、また、自分自身をなぐさめているもののように、心なき者の胸へも、秋のあわれが、谺してきた。

隣の女中部屋で、女中たちの噂ばなしが洩れた。