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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

板新道の家へ――」

息が、耳に、熱かった。

「ウム」

「きっと」

「うむ……」

「妹に、気がねなんか、いりやしない。お里だって……ほんとのこというと、榊原健吉の、お妾みたいなものになってるんですからね」

「あ……そうか」

「一番下のお喜代にだって、いま、旦那の話が持ちあがっているし……淋しいのは、私だけ、私だけが、ひとりぽっち」

欄干にある庄次郎の手へ、お蔦は、胸を押すようにして云った。乳ぶさのやわらかな肌のぬくみが、うすい単衣はないように、ぴったり、彼の手を抑えつけていた。

だが、庄次郎は、なぜか、お蔦の髪や肌を感じながら、心では、お喜代の愛くるしい眸や、唇や、白い顎を描いて、かすかな水音のする深い闇の底から、あの疋田鹿の子が、うかび出してくるように、うっとりしていた。

「じゃ、また、そのうちにね」

「あ……」

庄次郎は、びっくりして、頬へ手をやったが、お蔦の熱い唇は、もうかなたへ飛び離れて、笑っていた。

「左様なら――」

橋板を鳴らして、彼女は、小走りに、行ってしまった。

「ちッ……」

袂で、頬をこすったが、お蔦のにおいが消えなかった。二十七にもなって、まだ、清童である彼の潔癖が、忌々しげに、