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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

二

鮨屋の二階だった。

灯は消えている。二人は、疲れた後のように黙っていた。掛蒲団のすそから庄次郎の足の裏が顔をだしている。お蔦は、枕がみへ、じっと、眼をふさいでいた。

「…………」

窓いっぱいに銀河だ。その星の色を吹きこぼすような風が、秋のあわただしさを跫音にもって、灯のない部屋の二つの寝顔を撫でて通りぬける。裏の物干しで干し物竿が、からからと鳴る。

すぐ裏の板新道の宵の気はいが、風のせいか、遠くに聞こえる。細見売りの声、ぜんざい屋、ぼろんじの尺八――

庄次郎は、ふいに、

「あっ。……俺は帰る!」

起き上がろうとしたが、どこかを女の手が抑えていた。その手は離れない。

「早いのよ、まだ」

「でも、でも俺は」

「怒ったの」

「…………」

無理に起きて、帯を締める、印籠をさがす、足袋をはく――

「刀は、刀はどこへ置いた」

「まあ、火事みたいに」

「俺は、帰る」

「そんなに、あわてなくても、帰さないとは、云いませんよ」

お蔦は、笑っていた。

すっかり酒の醒めた庄次郎は、その白い微笑を、睨みつけた。腹だたしくもあるし、蠱惑な眼の中へ吸い込まれそうな危うさも感じられて、どっちみち、早く、この二階から飛び出したい。