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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
「おや、土肥が見えん。土肥は、どこへ行ったのか」
虚勢を抜いて、彼らが、気のついたころには、土肥庄次郎は、その肥えた体を、鈍々と足早にすすめて、健吉とよぶ侍の後を追っていた。
森氏稲荷の裏をとおって、空地をななめに、出雲橋のてまえ、そこで、追いついた。庄次郎は、取りたての免許皆伝、十分な自信があったし、いちどは実際に、生刀で自分を試してみたい気もあったし、彼の性格がまた、傲慢な侍の態度に、ひどく、真っ正直に、憤りを感じていた。
「待てッ。一ツ橋にも武士がいるぞッ」
後ろから、抜きうちに、気当、柄音、動作、一瞬に跳びかかって、斬りさげた。――斬れた、と思ったのであった。だが、庄次郎自身、
「痛いッ」
と、さけんで、潰れ屋敷の跡らしい雑草と古瓦の上へ、背を、いやというほどぶつけて、投げられていた。
手から、抛り落とした刀を、相手の侍が、拾っていた。そして、
「なるほど、一ツ橋にも、武士がいるな。さ、持ちなおして、もいちど来い。榊原健吉が、すじを、目鑑してやろう」
「…………」
「どうした。それ」
足もとへ、飛んできた刀を拾うと、土肥庄次郎は、後も見ずに、逃げだしてしまった。