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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

大天災でも襲ってくる前のようにむしむしとした空気である。しかし、戦争が、わかっていたところで、露八は、圏外の人間だし、どういう考えも無論なかった。眼のあたりに、避難する人々の混乱を見ても、べつに、その心境は急に変わりそうもない。体一つの境遇が、どんな強味かということを、ちょっと、愉快に思って、まるでこの世の終りのように騒いでいる世間の物音を、耳で、聞いているだけであった。

昼遊びの客が、残して行った酒が一間にそのままある。露八は、水のかわりに飲んだ。そして、畳の上に、寝ていた。

むくりと、その畳が、持ちあがるような気がした。と思ううちに、遠い大砲の音が、じいんと、梁につたわって、微かに家がふるえる。

「ははは。やってるな」

ここまではとどくまい――

そう前提しておいて、次の弾丸音を聞くのである。戦は、伏見附近か、鳥羽か、高瀬川堤という噂なのだ。

夜中から暁にかけて、だいぶ、砲声は近づいていた。寒いので、露八は、階下の台所へ行って、火をおこした。食べ物もある。樽には、酒もあった。

「洒落た留守番だ」

ひとりで、酒を燗けて、四日も、終日飲んでいた。あの丹波女でもいたらばなどと贅沢な気すらわいてくる。