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まつのやろはち

松のや露八

吉川 英治

「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页

青空文庫

夕波一刻

一

すると、静かに襖を開けて入って来た者がある。渋沢栄一であった。渋沢の後ろには、誰か、洋服姿の痩せぎすな若い官員が襖の外に佇立んで待っていた。

「これはいかん、酔いつぶれて、正体もない。久しぶりの邂逅だし、話をしてもわからんだろう。明日にでも、どこかへ呼んで会ったらどうだね」

露八の酒くさい息をのぞきこんでから、渋沢は、襖の外にいる者へ云った。

「は」

若い官員は、考えていたが、

「ご親切、ありがとう存じます。ですが、明日は、兵部省との打ち合わせがありますし、明後日は、早朝に横浜から出帆する船へ乗り込まねばなりません。酔いのさめるまで、待っておりましょう」

「そうかの、じゃあ、わしは一足先に帰る」

「どうぞ」

「――帰るが、酔いがさめたら、露八によろしく云ってくれ、どうにでも、身の立つことなら相談にも乗って上げるから、邸へ遊びに来いとな」

「はっ、いろいろと……」

渋沢は、そう云って去った。

顔いろの蒼白な若い官員は、きちんと、洋服のズボンを折って露八のそばに坐っていた。鼻下に八字髭を蓄えて、唇の紅い三十二、三の開化の紳士だった。

三十分経つ――一時間経つ――冷やかな銀襖に秋の日が暮れかけて、大川の櫓の音や川波が障子ごしに薄ら寒くしのんでくる。