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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
二
「ううム……水……水をくれ」
「水ですか」
うしろの水瓶から水を注いで、紳士は露八の背を軽くゆすぶった。
「水を注ぎました」
「…………」
黙って、ごくっ、ごくっ、と飲みほしている。
その顔を、じっと、見つめながら、紳士は洋服のかくしから半巾を取り出した。そっと両方の眼を拭っているのである。
二
茶碗をおくと、露八はまた、ごろんと肱を枕にしかけた。紳士は、烈しい力で、露八の重い半身を支え起こした。そして彼の正気を醒まそうとするように、
「兄上っ、兄上っ!」
と、呼んだ。
両方の手を畳について、露八は、痺れている頭を重そうに擡げた。赤くにごった眼が、やがて洋服の膝がしらから美髯のある紳士の顔を撫で上げるように見つめた。
「――八十三郎です。兄上っ、弟の八十三郎でございます」
「…………」
「しばらくでした」
ぴたりと両手をつく。その動作なり声なりは、昔の彼とちがわなかった。
「――実は、もう疾くに、お噂も承っておりましたゆえ、お訪ね申さなければならんのでしたが、戊辰の役に、上野から東北へと転戦して後、すぐ新政府に召し出されて、兵部省の書記を仰せつけられ、すぐにまた、廃藩置県の調べで、ご議事の間の出張員を拝命したので、地方を巡視いたし、席のあたたまる間もない忙しさのため、思わず今日までご無沙汰をしました」