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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
変な女があるものだ」
「私は、どっち?」
「おまえか」
「…………」
お喜代は、撥袱紗をだして、膝の上で、ひろげたり、畳んだりしながら、
「え。どっちなの」
「片っ方だよ」
「嫌いな方?」
「ううん」
首を振ったが、露八は諦めの眼を、壁へ外らして、独り言のように呟いた。
「もう、駄目だ。旦那ができてしまったからなあ」
「出来ないうちなら?」
「生命もやったろうよ」
横窓に、大川の水や舟が見えた。お喜代は、三味線を膝にのせて、
「――お稽古しましょう」
「願おうか」
露八は、畏まった。なるほど、お喜代が彼をお師匠さんと呼ぶのはおかしい。教える者はお喜代で、習う方は露八だった。
姉のお蔦からも、毛抜き鮨の二階では、よく教わったものである。今ではかなりな物が弾けもし唄いもされるが、数となると幾つも上げていないし、荻江節の指南で飯を食おうとなると、いくら、喉がよくても、器用でも、修業としてはまだはなはだ心細い。そんなわけで、お喜代が、閑暇を見ては稽古に来てくれるのだった。露八はまた、お喜代からこうして稽古をつけてもらっていると、心から滲みだす自分の声と彼女の絃のふるえとが、一つものに溶け合って、泣きもし、笑いもし、私語きもし、恋以上のあらぬ情慾などはすっぱりと忘れてしまうのだった。