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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
(お喜代とは、いつまでも、このままでいたい。これでいい)
この初恋を、風にも当てたくないように、心で庇って、心で諦めている露八だった。だが、その諦めも、時折、隣家の細格子をそっと開けて入る、いわゆる彼女の「旦那」なる人の姿を見るときには、焦々して、一日、落ち着かないこともある。
旦那というのは、今戸の寮で通っている三谷の大番頭、三谷斧四郎だった。そのころの金持番付では三井の一枚上にいて、西の鴻之池と張出横綱になっているほどな三谷総本家の一族で、斧四郎の通人ぶりは、辰巳も北廓も、風靡していた。
堀のおむらという老妓の家から看板を借りて出ると、すぐ、お喜代は、斧四郎の眼にとまって、柳橋の浜中屋がなかだちで、囲われたのだった。すぐ、どうかすると、世間がうるさいというので、わざと、小さな家にご神燈をもたせて、お喜代はその後も座敷へは出ているが、稀に、夕方の蝙蝠のように、その旦那の斧四郎が、そっと彼女の家の二階へ通る――。すると、露八のいる部屋とは、何の因果、壁一重だった。
(それもよし)
と、露八は、呟いているのだった。
(あれは旦那。俺は心の情人。こうしていれば、生涯の情人だからなあ……)と。