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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
「待てッたら、待て。忘れものがあるんだ。逃げも隠れもしねえから、待ってくれ」
発狂したように喚きつづけるのである。死際の頼みだ、待ってやれと、将の一人が云った。露八は、幕兵の手を振りほどいて、以前の空楼の内へ駈けもどった。槍をそろえて、幕兵たちは、後から尾いて行った。
きびしい眼と、槍の先で、監視していると、露八は、夜飼の鶯籠をかかえあげて、籠のふたを開けた。鶯は狂喜のあまり狼狽したかのように、障子だの天井だのへ頭をぶつけて舞った。そして、幕兵たちの槍ぶすまを縫って、ぴらっと、往来へ抜け、夕方の空へ、腹を見せて、飛び去った。
「――鶯」
「鶯」
往来の兵も、家の中の兵も、一瞬、気を奪られていたが、やがてのこと、幕兵の一人が、それを醒ますように、呶鳴った。
「あッ、野郎も、いつの間にか、失せたぞッ」
二
二階の窓から這いだして、屋根づたいに、露八は逃げたのである。
屋根に出たとき、露八は初めて、この世が常の相とはまるでちがって、天体も地体も、憤怒の火と煙にぐらぐらと沸えているようなこの世であることを知った。
(なるほど、大変らしい)
彼も、すこしあわて出した。