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まつのやろはち
松のや露八
吉川 英治
「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 125,597 字 · 253 页
二
地震と、大洪水と、火とが、一緒に来たように市中は昏迷している。大坂城はどっしりと宵の空に構えてはいるけれど誰も頼みには思わなかった。
(何でも、逃げろ)
衆の心理はそれだった。生命以上に、家財を背負って迷った。どこへ避難しても、弾丸がとどくように、恐怖に趁い廻された。
実際、砲弾は、刻々と淀に沿って、近づいてくる。六日の晩、七日の一日中は、ことにひどかった。伏見、鳥羽、枚方方面から敗退して来る会津兵や、桑名や、幕府の旗下の侍は、青い泥を塗ったような顔と、血によごれた体を持てあまして、よろよろと、市中にあらわれた。
「公方が、逃げたそうな」
「天保山から、慶喜公は軍艦で、関東へ落ちたのだ」
そんな噂が、伝わると、夜半から、大坂城の楼櫓は、炎を噴いて、大河と、市街と、海とを地獄のように赤くした。
「はやい奴もあるもんや」
避難民は、すこし安定の場所を得ると、新しい報道を、口から口へつたえて、興味にした。
「今時にも、熊坂長範みたいなものがいるとみえ、あの大坂城へ、大八車を曳きこんで、お金蔵だのお手道具だのを、空巣稼ぎした奴があるそうじゃ」
「ほう、ひどいやっちゃな」