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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

あっ、谷底へ。

一道の赤土が、岩の肌や藤蔓や雑草の断崖を顛落して行ったあとをのぞいて、

「しまッた!」

と、初めて、心の底から出た彼の舌打ちが、いかにも忌々しそうでありました。

それさえあるに、途中の木の枝にからまっている月江の帯を、茫然、自失のていで、ぼんやりと見つめている彼のうしろから、

「久米之丞! こッちを向け」

と、人をばかにした人間の声がしました。

そういう人を愚にした嘲弄のかけ声に、何も命令どおり、首を曲げる必要もありますまいが、折も折であり、不意だったので、

「えっ!」

と、思わず彼がうしろを向いた途端に、

「間抜けッ」

と、叱りつけるような一喝。

あっ――とかわそうとしたが、後ろは谷です。と言って、前から風を切って来たのは、相手の見当もつかぬ鋭い白刃!

「あ――何者ッ」

久米之丞は、その無鉄砲な抜き討ちをかわして、さッと、横ざまに飛び退きながら、

「人違いするなッ、人違いを!」

と相手を確かめようとしましたが、さらに烈しい二刃三刃、口をきくまもない太刀風です。

ぜひなく――久米之丞はまったくぜひなく、太刀を取り直して斬り合いましたが、心は月江の落ちた谷底にとらわれていて、必死な反抗も持ち得ないのであります。