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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

螢の闇

さて、そうしてから老賊秦野屋九兵衛は、

「粂吉さん、飛んだ目に会いなすったね。まあ、髪でもなでて……おう肩にも泥がついている……ついでに帯でもお直しなさい」

自分はそこのざぶとんを拾って、楽屋口に腰をおろし、黙ってたばこを吸いつけている。

お粂もまた、黙って、そのそばを馳けぬけて、自分の鏡台のある幕のかげへ飛び込みました。

が――そこにはもう、あると思う気がした鏡台も化粧道具も、そのほか衣裳つづらまで、一物として残っていない。

しかし、離散した者たちも、お粂の着がえ一通りは、そこに残して行きました。彼女は、ほころびた着物をそれに着かえ、ともかくも髪のほつれや涙のよごれをふいて、あらためて、九兵衛の前へ来て、

「どなた様か存じませんが、只今は、有難うございます」

「まあ、怪我がなくって、いいことをしたね」

「おかげ様で、命びろいをいたしました」

「そうさ、文身庄の身内といえば、命知らずがそろっているのだからかなわない」

「そして、あなたは」

「わしかね? わしは江戸の大伝馬町に住む甲斐絹屋九兵衛というもんですがね、その甲斐絹の買出しにこの甲府へきております。それで荷元との話がつく間、この近くに宿をとっていたが、夜の気さんじにこの間うちから、時々、ここの掛小屋へおまえさんの曲独楽を見物に来ていました。