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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

「海はようございますな!」

と、突拍子もない声で、自分の存在を誇示するように、

「武蔵野に芒の伸びる頃もいいが海の趣もまた格別。来年はぜひこの久米之丞もお供致しましょう」

「あら」

と、初めてその人間に気がついたように、

「久米之丞様におすすめしているのではありませんよ」

「これはきつい御挨拶」

千蛾老人は突然上を向いて哄笑しました。

そこへ小間使いのおりんが馳けて来て、

「お嬢様、あちらの芝生へいらっしゃいませんか」

「鞠は?」

「ここに」

と、たもとの中に抱いている革の蹴鞠を見せますと、月江はすぐに亭の外へ走り出して、いつの間にか見えなくなった次郎の姿を探しながら、荘園の広場へ向って蝶のような姿を翻して行く。

「蹴鞠をなさるのでござるか、月江殿、月江殿」

と、それにつれて久米之丞も、あたふたと立ちかけますと、

「ああこれこれ」

と、千蛾老人はその出鼻を呼び止めて、

「お前にもう一つ厄介な頼みがある。そろそろ風が薄寒くなったから、奥の座敷へ来てくれんか」

「はっ」といったが、久米之丞はうらめしそうです。

「まだ何かほかに御用が?」

と、不承不承。

こう御隠家様の信用を取りすぎるのも好しあしだわい――と思いながら、月江の去ッた方をまだ眺めていますと、ポーンと快い音と一緒に、蹴上げられた鞠が若葉の上に高く見えます。