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もめんいぜんのこと
木綿以前の事
柳田 国男
木綿以前の事「女性」1924(大正13)年10月、何を着ていたか「斯民家庭」1911(明治44)年6月、昔風と当世風「彰風会講演」1928(昭和3)年3月、働く人の着物「旅と伝説」1936(昭和11)年7月、国民服の問題「被服」1939(昭和14)年5月、団子と昔話「ひだびと」1936(昭和11)年3月、餅と臼と擂鉢「社会経済史学」1934(昭和9)年1月、家の光「家の光」1926(大正15)年2月、囲炉俚談「文学」1935(昭和10)年3月、火吹竹のことなど「知性」1939(昭和14)年4月、女と煙草「ひだびと」1939(昭和14)年2月、酒の飲みようの変遷「改造」1939(昭和14)年2月、凡人文芸「短歌研究」1934(昭和9)年2月、古宇利島の物語「短歌民族」1933(昭和8)年5月、遊行女婦のこと「俳句研究」1934(昭和9)年4月、寡婦と農業「農業経済研究」1929(昭和4)年10月、山伏と島流し「俳句講座」1932(昭和7)年8月、生活の俳諧「第一高等学校講演」1937(昭和12)年12月、女性史学「実践女学校講演」1934(昭和9)年7月、女性史学「民間伝承」1936(昭和11)年3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 177,586 字 · 348 页
二
余剰は貯蔵させるが、遠国は力めてその大部分を交易に宛てしめ、軽物にして京へ上せるようにする。是があの時代の地方財政法であった。一種の農業倉庫であったが、動機はもっぱら行政の便宜にあり、貸稲の制度もむしろ年々積替の必要から起こっていたらしく、その計算はまたあまりにも大まかであったために、余得は追々に土地の豪族を長養することになった。そうして彼らの勢力が境を越え、軍陣の往来が盛んになると、俵物の必要はさらに加わってきて、もはや伏見稲荷の御神像のごとく、稲を担いで遠く行く者は、見かけることができぬようになったのである。
二
この籾俵化の以前の状態が、今でもわずかながら窺われるのは、沖縄県北部農村のイネマヂン(稲真積)である。この辺から奄美大島にかけて、最も特色を認められている高倉の構造なども、その外形から見て明らかに是から進化したものと言えるが、稲真積の方は収穫の季節ごとに、臨時に設計せらるる貯蔵法であった。場処は大抵は耕地の附近に、石を土台にして円い形に、稲の穂先を内側にして積み上げて置く、きわめて簡易且つ悠長なる様式のものであるが、その分布は弘く日本の南北の果まで及んでいたようである。