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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
「気のつかない嬶あなので、あっしがいないと、何のおかまいも致しません」
「いや、こうしている間は、かえってかまってくれぬ方が自分も気楽だ。そちの用意がよかったら御苦労だがまたいつもの所まで送って貰おうか」
「それじゃすぐにお出かけなさいますか」
「ウム、明りを灯すにも及ぶまい」
膝の傍の大刀を寄せて、腰にたばさむと、あたりの物を片づけて、静かに、そこを立上がった様子です。
立ってみると、着流しではありません、足元を括った膝行袴に、土間へ降りてわらじを穿く。そして、彼が黒頭巾の緒を結んで納屋の外へ出る間に、率八の方は大川の洲に一艘の猪牙舟を解いて、
「親分、あとは嬶あが戸を閉めに来ますから、どうか、そのままにしておいておくんなさい」
と、櫓支度をして待っている。
ぽんと、それへ日本左衛門の影が没して、ギイッ、ギイッ、という櫓韻が大川の夜霞に遠くなって行った頃です――やがて入れちがいに、二人が去った納屋の中に、ぽっと明りの影が射して、男姿のお蝶が黙然と坐っていました。
一閑張りの小机があります。お蝶は覆面のまま前に坐っておりましたが、思いついた風に、硯筥の蓋をとり、有合せの江戸川紙へこんな文字を幾つもうつつに書き散らしてみる。