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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

「万太郎様がお案じであろう、早く、一日も早く、わしは根岸へ帰らなければならぬ」

金吾の囈言を聞けば聞くほど、かの女の甘い毒薬は少しずつ朝夕の粥に増されて、春は来ても梅は咲いても、相良金吾、聖天の洞窟よりはさらに無明な妖婦の愛のとりことなって、今は、いつこの水門尻の隠れ家を出られることか、寝顔のかれも、枕元で見つめているお粂自身も、結び合されて解けない奇なる運命を、自分で作って自分でもどうなることか分りますまい。

「もし……相良さん」

と、お粂はやがて夜具の中の昏々たる夢の人を軽くゆすぶって、なお醒めない寝顔に吾を忘れて見入っておりましたが、

「堪忍しておくんなさいね」

こう詫びると、突然、自分の顔を男の頬へピッタリと押しつけて行って、美しい斑のある猛獣が香ばしい餌にじゃれて、うつつにでもなったような身ぶるいを寄せ付けつつ、

「帰しゃあしない……私ゃあ、どんな事をしたってこの人を、自分の手から、帰しやしない!」

囈言のように呟やき、ひとり涙を流しながら涙の甘さに酔いかけておりますと、

「お粂さん――御馳走さまだな」

あらぬ所から思わぬ人声が飛びこみました。