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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

「斬ッたな」

身をのばして二、三尺、屋根瓦の坂を辷って行くと、不意にうしろから寄り添った二ツの手のひらが万太郎の目をふさいで、

「――尾州家の坊っちゃん。今晩は」

と、人をばかにしたことをいいました。

「や? ……たれだ……」

と万太郎は驚いて、目をふさがれた冷やっこい手へ、自分の手を重ねて軽く身をもがく。

たれとも知れぬ者にうしろから目をふさがれたので万太郎、

「おのれ!」

と、その手をねじって離そうと試みましたが、どうして、離れればこそ。

膠で顔へ貼りついたような憎い手、曲者の手。

爪を立てたが離しません。

と言って――何しろ足場の悪い屋根の上、霜にぬれた瓦のぬめりを無理に踏んで立ち上がれば、身を滑らすのは知れているので、

「ウヌ、何奴ッ?」

前差の小柄をキッと逆手に、抜くも矢庭、いきなりかれの腕首に斬りつけましたが、

「あぶねえ!」

と、逸早くその手はサッとうしろへ逃げて、万太郎の短気、あわや、自分の小柄で自分の喉笛を切ってしまうところでありました。

と、宙天にからからと笑う声がして、

「お坊っちゃん、ひどく、御立腹だな」

「あっ!」

振り仰いた万太郎は、梨地の星をさえぎって屋根の峰に立った黒い男の影を、一目で日本左衛門の黒装束と見てとりました。