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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
――と別れようとすると、
「おい伊兵衛、伊兵衛、待てよ伊兵衛……」
馬春堂はわれを忘れて、思わず泣き声を上げかけました。
しかし、一方はそれに耳も貸さないで、真っ赤に咲いた躑躅や八ツ手の間をこぐり、庭の奥へと素早く影をくらましてゆく。
一時は情けない気がして、かれは伊兵衛の不人情を恨みたくなりましたが、考えてみると、かれにも何かの都合があろうし、自分の無二の者が、ここへ化け込んでいるかと思うと、最前よりは遙かに心強いわけです。
それから後、その明り取りへ首を出して、外の気配にばかり神経を尖らしていますと、やがて陽ざしの七刻近い頃、狛家の召使いや数人の郷士たちが、
「お嬢様のお帰りじゃ」
と騒めき立つと、母屋からフラフラと駆けて出て法然門の両側へずらりと出迎えに並びました。
千蛾老と久米之丞
藤棚の藤の花もゲッソリと散り細ッて、亭の四角い地上だけが、紫白の絨氈を敷きのべたようです。
唐焼の陶物床几に、ここの御隠家様なる千蛾老人はゆたりと腰を休めて、網代竹の卓のうえに片肱乗せ、
「久米之丞、おまえも、月江に会うのはだいぶ久し振りじゃろう」
と、その人をひきつける童顔に目じりを細めて、銀を植えたような髯の先を指でまさぐりました。