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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
すると――
その時、遙かな母屋の方から、喨々と玉をまろばすような笛の調べ!
いと面白き狛笛の音です。
低き時は水のせせらぎも止まるかと思われ、高音を張りきる時は山嵐の樹木も一時に身ぶるいするかと思われます。
御隠家様を初め、一同の者に勧められて、道中師の伊兵衛がぜひなく試みた狛笛の一曲でしょう。
伊兵衛は天生笛の名人であるとか。なるほどこれは本ものです。まことに奇妙な泥棒の隠し芸。
一座の者も、かれの本業を知らぬ故、それに酔わされておりましょうが、それを、泥棒の芸術と知って聞いたら、鬼気身にせまり、肌に粟を生ぜずには聞かれなかったに違いない。
……今、馬春堂を殺そうとして密室の外へ忍び寄った久米之丞も、その妙音に酔わされて、うッかり、曲の終るまで聞きほれてしまいそうです。
「オオ、あの笛は?」
と、暗剣の間にこもっていた馬春堂も、寝つかれぬ枕をもたげて、
「伊兵衛らしいが……」
と、不安そうな目をポカッとあいて、部屋のあたりを見廻している。
「なんていう呑気な奴だ、畜生、人の気も知らねえで」
と、やたらに腹が立つ。
泣きたい程、癪にさわる。
一方は死の恐怖に襲われどおしで、寸間も安心していられないというのに、一方は笛や酒宴。