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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

館は折よくあの騒ぎですし、多くの郷士も武蔵野歌で酔いつぶれている。

「あしたの朝になったら、さだめし呆ッ気に取られて、ゆうべ吹いた笛吹きの名人は、狐か狸じゃなかッたかと、大騒ぎをして戸惑いをしやがるだろう」

伊兵衛はおかしく思いながら、ふところにのんでいる匕首を抜いて、いきなりヌッと、喜連格子の前へ腹合せに立ち上がる。

あぶなく、声を出しそうだったのは、中に忍んでいた次郎で――

「あらッ? ……」

と、驚きながら身をかがめ、白眼をジッとそこへ射向けていますと、外の伊兵衛は匕首を持ちかえて、喜連格子とねじ合っているようなあんばい。

鋭利な刃物が、見事にサクリサクリと削り抜くのが、何ともすごい静かな音です。

なんの手間ひまもかかりはしません。

忽ちそこの用心を切り破って、ギイ……と開いて来た道中師の伊兵衛、すでに、その品物の位置までちゃんとのみ込んでいたものの如く、無造作にズカリと中へ身を入れて、心覚えの所へ手探りをのばしかけますと、

「小父さん、何だい?」

と、暗の中から伊兵衛の腕首をつかんだ、青面金瞳の夜叉――口が耳まで裂けたる般若の顔。

「あっッ」

と、さしもの伊兵衛が度胆を抜かれたのは、その不意であった事よりも、燈下に見てさえ身の毛のよだつ、出目洞白の神作の怪しい力に衝たれたに違いない。