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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

かかる山ですから好んで夜旅を試みる者もなく、陽は麓より早く暮れ、星を見れば駒木根川へ落つる水の音と、高尾に棲むという閑古鳥の鳴く声のほか、絶えて往来を見ないのが常です。

だのに――殊さらに宵も過ぎた時刻を計らって、この小仏へさしかかって来た女の心事こそ怪しむべき限りです。

しかも、とぼとぼと小仏へ向ってゆく姿を、星明りによく見ますと、蜀江模様の帯を高くしめ、振りのたもとを永く曳いて、紅緒の草履もその裳にかくれていようという――まことに山越えの旅にはふさわぬ身支度で、顔さえも、口紅や白粉の薄化粧をほどこしているさま、敢て魔神の呪いを身にうけんとして来た化粧としか思われません。

それは、切支丹屋敷のお蝶でした。

十九の春まで、ころびばてれんの娘として、茗荷谷の異人屋敷に縛りつけられていたのを、その宿命の牢獄を破って、見も知らぬ広い世間の暗へ、あてどなく彷徨い出した混血児のお蝶であります。

「水……」

喉が渇きました。

氷のような冷めたい風に吹かれながら、五体は熱く、ねっとりと汗ばんでいる。――で、どこかに流れる水音を聞いて、お蝶は急に焼きつくような渇きをおぼえました。