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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

「やれやれそいつは大変だ、どんな急用があるのか知らないが、夜が明けてからにしたらどうだい」

折も折なので、しきりと止める者もありましたが、若い行人は身支度をして、教えられた間道から小原へ越えると言って、まもなく、ただ一人で下頭小屋の人々と別れて行きました。

よせばいいのに。

さだめし後では下頭小屋でそう言っていましょう。一歩、沢尻の細道を踏み出すと、両手で目をふさがれて行くような暗。

しかし、やがてだらだらと上へ辿ると、空を、覆うていた叢林もとぎれ、沢辺の水明りも足元を助けて、そこに一つの道しるべの石が見出されます。

それから沢を向うに渡って、狭い道を流れに沿って行けば、小仏の裏道、例の千魂塚の前を通らずに、甘酒茶屋の先に出る――と下頭小屋で聞いて来たはずなのに、その男は、敢て、右手の登りへかかりました。

小仏越えの本道、星影のつづら折りを辿る程に、まもなく前の千魂塚の堂の前へ出る。

彼はそこに立って、あたりの暗を見廻しました。

颯々たる松の声、雨のごとき雫の音、依然として一刻前と少しも変りがありませんが、そこに千魂塚の白麻の布をかぶッていたお蝶の姿は見出せません。