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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
元より星明りに遠く見ることですから、たしかにどうというのではないが、彼の気もちに映って彼の心をコジらせるものは、どッちみち、そこを去らないお蝶の影で、彼女を見ながら手が出ないということが、そもそも小癪にさわる原因であります。
その時、ふと気がついてみると、深い渓谷のやみに一道の火光がさしている。
幾つもの赤い火が蝟集して、一疋の百足虫のような形を作りながら、山と山の間を縫って来るものとおぼえます。
「あれは何か?」
日本左衛門の気持はその火光にさらわれて、ふいと、お蝶のことを忘れている。と、同じように、向うの崖にうずくまっているお蝶のひとみも、やがてはそれを凝視したでしょう。
二人の間には、もう葛藤をいれない空間があるので、彼の一時のあきらめとお蝶の安心とが、期せずしてその不意なものに気をとられていました。
火の百足虫はだんだんに山の尾根をすすんで、二人の目の下まで進んで来ています。そしてまた幾分か登りながら何かの足場を求めている動作に見える。
山家の人の寄合でもあるのかしら?
お蝶はそんなふうに解していました。
火は松明です、黒い影は人です、やがて彼女と日本左衛門の視力を距ること遠くないところに、その一団がまろくなって宛たる炎のかたまりを作りました。