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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

と、言ううちに秦野屋は、もうスタスタと辻堂の前へ歩いて、そこに腰をおろしていたお粂へ、さあらぬ調子でことばをかけています。

「おおひどい、この汗だ。今帰って来ましたよ」

「たいそう早かったじゃありませんか」

お粂は辻堂に身を休めながら、あたりの暗をさまよう螢の美しさに見とれていたので、待つ間も、永いともさびしいとも思っていなかったようです。

「何さ、先様でも、上がって行けの泊って行けのと、しきりに袖を止められましたが、こんな所へ、ひとりで残しておいたお前のことが心配でな。は、は、は、は、は」

お粂は、相手が笑いながら手を握って来たので、年甲斐もない好色と、心のうちでおかしく思っていましたが、

「おう、そこでなお粂さん」

と、九兵衛は引っ立てるように彼女の腰を立たせて、

「わしが、待っている者があるからとツイ口をすべらせたので、荷元の旦那がそこまで一緒に来ていらっしゃるのだ……何とでもいいから、ちょっと、あいさつをしてくれないか。なあに、まのわるい事があるものか」

「荷元の旦那が?」

「うム、それ、そこに立っておいでになるお方だ」

変なことを言う?

お粂の直覚が九兵衛の顔に鋭くうごいた途端です。