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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
けれど、今坐っている観音堂のこの廻廊が、氷の上でも石の上であっても、そこを立つ勇気はない。
夜はだいぶ更けていると見えて、奥山の小屋の灯も、吉原通いの人どおりも、ばったりと途絶えて、傘のような御堂の廂をのぞいた以外な所は、霜に冴えて、真ッ白に見えるばかり。
すると最前から、伽藍の裏に倚りかかって、じいっとお蝶の方をながめていた三十前後の町人がありました。八丈の襟をかけた藍縞のはんてんに、虱絞りの手拭で頬被りをしているので人相は分りませんが、ふいと腕ぐみを解いてそこへ寄って来ると、
「姉さん、眼がさめなすッたようだが、そんな所で夜を明かしていると、風邪をひくだろうぜ」
と、じろじろとお蝶の身装を見廻している。
「有難う。ほんとにブルブル慄えてしまった、どこか、火の気のある所はないかしら」
「こんな所に寝るから悪いや、ここは、煙草の火も禁断だよ」
「だって……」と何か言いかけましたが、お蝶はその時になって、男の素性が気味悪く思われて来たので、ぷいと横を向くと、白い指を膝の上で躍らせながら、小声で、何かの唄をうたい出しました。
口のうちで唄っているので、よく聞きとれませんが、それは、手毬唄でもなし、琴唄でもなし、三味線にのる花街の唱歌でもありません。