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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

とお蝶はあわてて地袋の中へそれを戻して、何気ない顔を作ってひとみを上げますと、日本左衛門ではありません。

「こいつはいけねえ、座敷ちがいをしてしまった。へへへへ、つい酔っているもんですから、飛んだ失礼をして、ごめんなすっておくんなさい」

無論、額風呂の客にはちがいありますまいが、作り笑いをした眼元に一癖のある町人が、ヒョコヒョコ頭を下げながら、ぷいと縁先から姿をかくしました。

ですが、町人の去ったあとも、いつまでもお蝶の胸は動悸が納まらないように、あの睫毛の濃い眼を見ひらいたまま。

「ああ、よかった……」

と暫く胸騒ぎをおさえています。

こうして、ある時は女のまま、ある時は若衆の男姿で、恋に寄せて、彼に近づいておりますが、もし今の挙動を、あのけい眼な日本左衛門にちょっとでも見られたならば、もう彼女の運命も長くは無事でいられません。

すると、すぐその後へ、濡れ手拭をさげた日本左衛門が戻って来て、

「アア、さっぱりとした」

だるそうに湯上がりのした両足を、畳の上へ投げ出しました。

彼の姿を見た途端に、お蝶の眼ざしはさりげなく鋭さを消して、

「すこし髪がくずれましたのね、私が、梳いてあげましょうか」