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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

……またよい折を見て、このおりんから必ずお話いたしましょうから、そんなに取越し苦労をして、お泣き遊ばすものではございませぬ」

しかし、月江は泣きたいのでした。泣く理由があると否とにかかかわらず、ただばくとした恋というものに、あるだけの涙をそそいで泣きたい。

はたから悲歎にみえるその涙は、彼女に、甘い味がする。

(これが、遺伝とやらいう、わるい御病気のきざしでなければよいが)とは、ひそかにおりんが一番憂えているところで、恋を得た熱海にいた頃の月江から見ると、まるであの軽快な姿態やほほ笑みはあとかたもなく失われています。

「おやすみ遊ばせ。くよくよとお思いなさらずに」

――とにかく寝せつけて、

「おりんも、休ませていただきまする」

と、彼女が月江の部屋をそッとさがってきたのは、庭から影をひそめて、なお、半刻も後のことでありました。

屋の棟も三寸さがると俗にいう刻限、ことに旧家のおそろしく長い廊下の暗やみを足をこごえさせて歩くほど、不気味で、寒いものはありません。

そよそよと、通りぬける風があるので、おりんは一度自分の寝間へはいってから、

「あ、雨戸を」

と、気がつきました。