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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
次郎をそこに止めて置いて、釘勘は大股に何処ともなく立去りました。
「あ。……忘れた」
後ろ姿を見送って、用水堀のふちにぽつねんと立っていた次郎は、その後で、何か悔むようにこう呟きました。
「忘れた、忘れた。……自分の教える事ばかり喋舌ッていて、ツイ、ゆうべから訊こうと思っていたお粂の事をたずねてみるのを忘れてしまった」
霜解けの千束村の畦を、梅の枝を持って通る人や、のろのろと歩む空駕の人影がいかにも春先の点景らしく、うららかに動いて見えます。
紙漉職人の働いている紙干し場の原の手前で、一つの駕が止まりました。
「おい、すてきもねえ美女が通るぜ。天降りでなくて、駕降りの天女だ」
「ほウ、成程、こいつは素晴らしい眼の保養だ」
「何処へ行くんだろう。行く先が気にかかる」
「あれ、溝にそって大川の方へ歩いたぜ。あの流れが越せないので、橋を探しているんじゃねえかしら、それなら手を取って渡してやりたいものだが」
などと干し場の紙漉職人が仕事の手をやめて騒いでいる彼方を見ますと、今、小川の縁で駕を捨てた押絵のような娘が、その声に顔を反向けて、小川の水際を大川河岸の方へ、朱塗りの木履を転ばせて行きます。