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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
「どうぞ、ごゆるりと」
率八が出て行こうとすると、
「おい」
「何か御用で?」
「面倒だろうが、あとで酒の支度をしておいてくれ。それと、ぬかりはなかろうが、納屋のまわりを時折見張っているようにな」
「よろしゅうございます。安心して、お話なさいまし」
どんと、戸を閉められると、納屋の中の光線は、わずかに明り取の切窓一つで、お蝶の絢爛も日本左衛門の姿も、程よく室内にぼかされて二人の気持も落着いて来る。
――まず何から話そうか。
彼と彼女の間に、或る心の経過があったとしても、茶屋町の四ツ目屋の帰りからずっと今日まで、彼が追えばのがれ、彼が迫れば蛇の如く忌んで逃げていたお蝶が、自分からここへ来てから真向きに坐る気持は、何としても、唐突で、にわかに言葉の緒口が見つからない。
が――そういう時には、女にはモジモジしているという受身の姿態が助けます。お蝶もそこで、娘らしい羞恥みを作って、男の言い出す声を待つばかりでした。
「…………」
けれど日本左衛門も暫くは無言で、彼女の襟脚を眺めながら、彼女の心を読もうとするものの如き眼ざしであります。
外では率八が、見張りの眼を光らしながら、酒の肴にしようとして、そこらの枯れ草で有合せの蛤でも焼いているものとみえ、明り取の窓からその煙と、こうばしい汐の焼ける匂いがぷんと流れて来る……。