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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
盲目的な相愛のものまでには燃えてまいりません。
そのくせ、日本左衛門の悩ましそうな態度や、お蝶が、危険を冒して毎日訪ねてくる様子などを見ると、表面いかにも熾烈で、他愛のない睦言に過ごす半日の二人の仲には、どんな恋の飽満が醸されたかと思われるのですが、そうしつつ、恋は一歩もすすみません。
その矛盾は、夕方になると、二人の顔いろにあらわれます。
お蝶が来る――障子が閉まる――二人のささやきが甘そうにもれる――姿も見せないで半日が暮れる。そして、夕方が迫る。
こういう順序が、額風呂の離れへ来てからも、毎日判で押したようにつづきましたが、丁字風呂の二階に、ぽッと春の灯が橙色にともるころになりますと、お蝶も、日本左衛門も、期せずして酔のさめたようなひとみに変り、二人の心に冷やかな刃と刃が闘いはじめる。
燈火を嫌う妖精のように、離れへ行燈が運ばれると、その明りのはいる先に、丁字風呂の裏門をスウと帰ってゆくのはお蝶です。
「やっ? ……誰かこの袋戸に手をふれたな」
彼女が去るとすぐ後で、こう気がついて愕然とした日本左衛門が、そこの包みを解いてみると、夜ごとに使う黒衣の類は残されてありますが、その下に秘めておいた樟板の半分は何処にか失せて見当りません。