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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

「――わしは何できょうまで生きていたんだろうか」

髪の毛をつかんで、近頃目にたって衰えた肩をふるわし、かの柿の木の根元にうずくまりましたが、呪うても死ぬことのできない自分の生命を持てあますものの如く、額を抑えてふらふらと――陽炎の影よりはまだ薄い姿の影を、まばゆい春光によろめかせて行く。

「まア」

と、お蝶は家の中から、呆れたような目をみはって、

「まるで、気狂いみたい――。わたしがこんなに機嫌をとっているのに、何をいつまであんなに怒ッているのかしら?」

チッと、舌打ちをして膨れましたが、ふと、父が立ったあとの机に、お蝶の驚きを吸いつけたのは、見おぼえのある一枚の花櫛。

「あら?」

手にとってギョッとしました。

その摘み細工の花櫛には、血のようなものが黒く干からびている。忘れようとしてもかの女には忘れることができますまい――あの獄門橋の袂で、切羽つまッた果てに、生れて初めて人ひとりを突き殺したせつな――匕首の柄から指の股へと流れた人間の血の温みを。

その時落とした花櫛です。

獄門橋で落として来たのは生々しい事実にちがいないのに、二十日も経った後、どうしてそれが父の机の上にあるのだろうか?